兵庫津発展の功労者たち
兵庫津発展の功労者
現在の兵庫県高砂市に生まれ、兵庫津へ出て、船持ちとなります。回船業経営のかたわら、港の築造に従事し、各種の工事用の特殊船や道具を開発します。 幕府の要請で北海道に行き、函館のドッグや択捉島の埠頭を築造します。後に出身地高砂の港を修復したり、広島・浅野家に請われて、広島県福山市の港の修復にも貢献します。 功績の一つに帆布の開発があります。丈夫で長持ちの帆布は風力船の海運効率化に革命をもたらしました。この新しい帆布は、松右衛門帆と呼ばれ、明治中期ごろまで使われています。彼の色々な発明・工夫の中には、長い期間の運送に耐えるための新巻鮭(あらまきざけ)の開発などもあるようです。 こうした発明・工夫の結果、幕府から「工楽」という姓が与えられました。出身地高砂神社に銅像と兵庫・八王寺に供養碑があります。
工楽 松右衛門
くらく まつえもん
1743-1812
兵庫津発展の功労者
淡路島五色町の出身、兵庫津へ出て、若くして船持ちとなる。当時最大の1500石積みの「辰悦丸」を所有する。兵庫津に本店を置き、北海道・日本海沿岸と北前船で事業を発展させる。 北方の開発に注力する幕府の要請を受け、幕府の物資を北海道に運搬する。幕府の近藤重蔵と択捉島への渡航を試み、複雑な潮流を見切り、択捉島への航路を開拓する。 ロシア船のゴローニン船長が幕府に誤認逮捕され、たまたま通りかかった嘉兵衛がロシア側によりカムチャッカへ連行される。そこでロシアのリコルド副長と半年余り生活し、相互に信頼関係を築く。 嘉兵衛は北海道に戻り、ゴローニン船長の釈放に尽力し、成功する。(ゴローニン事件)一寒村だった函館に造船所を造り、函館山の植林など私財を投じた公共事業を行い、函館発展の基礎を築いた。 西出町鎮守稲荷神社に嘉兵衛寄贈の灯篭が残っている。
高田屋 嘉兵衛
たかたや かへえ
1769-1827
兵庫津発展の功労者
京都府竹田村出身 母は有栖川宮家の老女登士子。その環境から勤王の意思が強かったが、北風家に養子に行く際、僧月照から「勤王の志士より豪商として勤王の助力を」と諭され、ひそかに勤王派を助けました。 北風家は室町時代からの家系とされ、兵庫の北前船を一番多く所有する豪商です。 能福寺にある伊藤博文揮ごうの北風正造顕彰碑の説明には、戊辰戦争時、姫路城攻略の際、15万両(現在価値で約150億円)を拠出し、姫路城を戦火から守ったとあります。そのほかにも明治7年の鉄道開設の際、神戸駅の敷地や湊川神社の敷地などを寄贈し、幕末動乱時、私財を投じた民兵の兵庫隊を設立し、庶民教育の明親館設立など多くの貢献を行っています。 明治政府において会計官商法判事となり家督を譲って、正造と改名。県出納掛、通商為替会社頭取を歴任、新川運河開削事業、米商会社、七十三銀行の設立などに尽力しています。
北風 正造
きたかぜ しょうぞう
1834-1895